学校と、ホームスクールと

初めての子育て。誰も教えてくれないけど大切なこと。人と比べず情報に翻弄されず。経験をシェアすることで誰かの役に立つといいな。

不安の正体

不安になるのは、「子どもを信じていないからだ」とよくマリ君に言われる。冷静に考えてみると本当にその通りなんだ。キキもメイも、2人には果てしない希望と可能性が詰まっている。もちろんキキとメイだけじゃなく、全ての子ども達に共通して言えることだと思う。

ところが、私たち親は、その可能性を信じてあげられているだろうか?そして私たち親はその可能性を伸ばすことも、その芽を摘んでしまう事もできる。もちろん、殆どの親は可能性を伸ばしてあげたいと思っているに違いない。ところが、親がそのために努力すればするほど、その伸びしろがどんどん少なくなってしまうんじゃないかと思う。

 

例えば、元々は「この子はピアノが上手だからもっと伸ばしてあげたい」という気持ちでピアノのレッスンを始めたはずが、段々と「ちゃんとピアノの練習しなさい!」とか「〇〇ちゃんはもうこんな曲も弾けてるのよ!」と言った言葉でプレッシャーを与え、気付けば子どもの気持ちがピアノから離れてしまっていた、なんてことはよくあると思う。楽しくて大好きだったはずのピアノが、いつの間にかママに’やらされてる’習い事にすり替わってしまったのだ。こうなると自主的に弾いてる訳じゃないから、「やりたくないのにやらされてる」感が強くなってしまうんだと思う。子どもだって、やらされてる時よりも自らやってる時の方が断然楽しいはずなのだ。結果的には親が子どもの芽を摘んでしまった事になる様な気がする。

 

今のキキとメイは可能性の塊であって、どんな事でも成そうと思えば成せるはずだと私は思う。ただ一つだけ必要な事があるとすれば、それは「成そうとする気持ち」なんじゃないか。例え知識なんてなくても、「成したい!」という気持ちが強ければ知識なんてあっと言う間につくはずだ。そしてこの「成そうとする気持ち」を育てるためには、やっぱり自主性が大きな役割を果たすことになる。自分が選んだ事であり、自分が好きでやってる事だからこそ最大の能力が発揮できる。それは子どもだけじゃなく大人も同じだと思う。

 

そう考えると、あれしなさい!これしなさい!と言えば言うほど、子どもの自主性は失われていき、「やらされてる事」に変わってしまう。

それならば、親は何も言わず子どもの主体性に任せることが大切なのではないか。子どもに「任せる」ということは、子どもを「信じる」ことでもある。子どもの可能性を信じ、自主性を信じてあげること。その可能性を信じてあげられない時に私は不安になるのかもしれない。出来ない事ばかりに目がいって、その子自身を見ている様で見えていない。平均を基準としたり、他の親の目線から物事を捉えてしまったりしている時。

 

子どもが「好き」とか「楽しい」と思って取り組んでいる時こそ、横から口を挟まずに子ども達の心のあるがままにさせてあげる事も大切なんだと思う。そして、失敗すると分かっていたとしても、先回りして助けない事。失敗は成功の基であり、失敗してももう一度挑戦すればいいだけだから。失敗するチャンスを子どもから奪ってはいけない。子どもが助言や助けを求めて来た時に、しっかりと手を差し伸べてあげられる様に見守っているだけで十分なんだ。

 

そう考えると、今の私がやるべき事は「子どもを信じて、見守ること」なんだと思う。そう頭では分かっていても、きっとまた不安に陥る時が来るだろう。その時はまたこの気持ちを思い出して、少しずつでも心の揺れ幅が狭まっていき、いつか安定する日が来るといいなと願う。

生きているだけで素晴らしい。笑顔でいられたら尚素晴らしい。それ以上を望むのは強欲なんじゃないか。